<<バイリンガルの人たちの声>>
◆ T. G. (ベトナム)
私は12歳の時にベトナムから日本に来ました。
日本語は全然分からず、一からだったので一個下の学年に入れて頂き勉強することになりました。
その時は言葉の壁など感じる余裕もなく必死だったのを覚えています。 そのなかで学校の先生は授業以外でも一緒に勉強をしてくださいました。
また、学校以外にも地域の公民館で日本語を勉強しました。 2年ぐらいは本当に周りが何を話してるのかわからない状態で、疎外感がありました。
しかし、3年ぐらい経つと日本語もある程度わかり、友達もでき学校が楽しくなりました。
一方で、この時から言葉の壁を感じるようになりました。 伝えたいことが、上手く言えず、嫌になったこともありました。
けれど友達とコミュニケーションをする楽しさがわかり、さらに日本語の勉強をするようになりました。
家では親と話す時以外は、日本語を話す日々だった。 そうすると12歳でベトナムを離れた私は、基本的な言葉しか知らず、しかも言葉は話さないと忘れてしまいます。
それに気づき、何かが違うと感じました。 改めて自分の母国語を忘れてはいけないという思いがありました。
それからは自分なりに、ベトナム語に触れる機会を増やしました。 例えば、インターネットでベトナムの記事を読んだり、ベトナムの昔話の本を読んだりしました。 そうすることで、ベトナム語を忘れず、維持することが出来ています。 今では難しい言葉をわからなくても、伝えたいことは伝えられています。 ベトナム語を勉強していることのメリットは考えたことはありませんが、やっぱり周りの友達・親と楽しくコミュニケーションしたい思いがあったから学ぼうという気持ちになれたのだと思います。 自分の思いが伝えれない虚しさ、悔しさがバネになったと思います。
小さい時から日本で暮らす外国の子どもが本当に母国語を維持することは難しく、勉強する機会も少ないと思います。しかし、自分の母国語はやっぱり忘れてはいけないと思います。日本語も母国語も上手く使えるようにし、豊かな表現をして自分の気持ちを伝えれるように勉強を続けることが大事だと感じます。
◆ レイエス アルバロ (Alvaro Reyes Enriquez) (ペルー)
私は10歳の頃、小学4年生の時に日本に来ました。
小さい頃から勉強に励んでいたことで、当時の私のスペイン語のレベルは他の子供達よりはレベルは高く、これからも成長する頃だったのですが、日本に来て日本の小学校に入り、
0からのスタートをきったことで不安も抱きながら、日本語もスペイン語も勉強しながら、
私の親の言葉でもあるポルトガル語もはじめ、3カ国語を勉強しましました。
私の方から他言語を同時に勉強することに対するデメリットは感じませんでした。
逆にメリットとして自分のルーツの自覚できること、自分のアイデンティティを持つこと、自分の世界を広めることができることに対してすごいメリット、または才能ともなることだと思うので、買ったり、貰ったりする物は誰にでも奪われることはできるが、それより、こう言った自分の物でしかない物を身につけることで自分の一生の宝物として持てると思うのです。
是非日本、または様々な国々に在住している外国籍の持つ子供たちが、これらを自分の物にして大いに成長して欲しいと願っています。
Yo vine a Japón a los 10 años(4grado de la primaria ). Con mucho empeño desde pequeño tenia mas facilidad en la lengua natal, mas que los otros niños de mi edad,y seguramente iria a desenvolverme mas y mas. Solo que al venir a Japon tuve que comenzar desde 0 ,lo que me dio mucha preocupación y dudas por el gran cambio. Empecé a estudiar las dos lenguas ,claro que tambien contando con mi otra lengua materna que es el portugués, lo que tornaba mis estudios a 3lenguas al mismo tiempo. Al estudiar las tres lenguas nunca senti ningun tipo de desventaja o mal ,si nó al contrario, senti una ventaja a comparacion de otros niños ,chicos y adultos por poder estar consiente de donde soy , poder saber mi propia identidad y poder vivir en un mundo mas ámplio con muchas posibilidades dentro de este gran universo. Se puede llamar ventaja,o como un talento que no se puede comprar o recibir como otras cosas que alguien nos podria quitar,es como un tesoro que es solo nuestro . En Japón u otros paises donde hallan niños de diferentes nacionalidades les deseo todo lo mejor , que puedan desarrollar este magnífico talento que solo nosotros lo podemos tener a través de esta gran experiencia y sobre todo les deseo muchos exitos.
◆母語が話せるメリットについて 小波津アリシア (ペルー)
私はスペイン語を母語に持つペルー人です。来日して約10年になります。最初は皆さんが今突き当たっているであろう日本語の壁に私も悩まされておりました。今こうして日本語を不自由なく使えるのは、周りの環境が優れていたからだと思っています。小学校のときのサポーターや友達、先生に助けてもらいながら、日本語という言葉を少しずつ覚えていきました。日本語を学ぶのと同時に、スペイン語母語教室にも通いました。
今回皆さんに伝えたいこと、それは母語を話すメリットについてです。
一番直結していると思うのが、知り合いの方たちを通じて、通訳または翻訳の仕事をいただけることです。もうひとつは、スペイン語を教える先生としてとある高校に呼ばれたことです。日本語を学ぶことで、学校生活をなんの不自由もなく過ごす事ができ、スペイン語教室に通ったことで、忘れずに、今は仕事と結びついています。
日本語を学ぶことも大切ですが、いかに母語を同時に維持するのかも大切だと思います。そして、その二ヶ国語を話せることに葛藤せず、自分にはこういう一面もあり、むしろ誇りに持つべきことだと思います。
Me llamo Alicia Kohatsu. Soy peruana y vivo en Japón por alrededor de 10 años. Yo también como todos me he enfrentado a la pared de comunicación. Al principio no podía hablar bien con mis compañeros. Ahora, gracias a los que me ayudaron en mi primaria, mis profesores, compañeros, voluntarios, puedo hablar el japonés sin dificultad. De poco a poco estuve aprendiendo japonés, aunque al mismo tiempo aprendía el español para no olvidarme.
Uno de los méritos que tengo por saber mi lengua materna, el español, es que me dan trabajo como traductora o intérprete. Además tengo un trabajo para enseñar en un colegio.
Lo importante es como aprendes el japonés, y mantienes tu lengua materna. No es un problema que tengas que manejar dos lenguas al mismo tiempo. Al contrario, deberías de estar orgulloso por tener las raíces de tus padres y puedes hablar o vas a aprender dos idiomas diferentes.
◆2011年度 6年生 女子
ヨロブン アンニョンハセヨ。わたしは地元の公立小学校に通う6年生です。
私がオリニソダンに入ったのは、私の学校でオリニマダンが開かれた3年生の時でした。先生に、「韓国朝鮮にルーツのある子どもたちが集まって勉強しているオリニソダンというのがあるよ」とすすめられたからです。
ソダンに入る前、あるとき、「私ハーフなん?」と母に聞いたことがあります。そのとき母は、アボヂが韓国人で自分が日本人であること、結婚するときから生まれてくる子どもには韓国と日本、両方の文化を大切にして育てたいと話し合ったことなど、いろんな話をしてくれました。それを聞いて私は、みんなとちがうというのが何か誇らしいと感じられました。
最初、ソダンに行って思ったのは、「うわー同じルーツを持った子がこんなにたくさんいるんだー。」というおどろきでした。それから今日まで、ほかの習いごととのかけ持ちで、しんどい時もあるけど、ソダンやマダンに参加してきました。
アボヂはマダンに出てチャングをたたいたり、プチェチュムを踊っている私を見るたび、毎年のように、「ひいじいちゃん、ひいばあちゃんが生きてたら絶対、よろこんどうわ、いっしょにおどるんちゃうか」とうれしそうに言います。
学校の友だちも先生もオリニマダンを見に来てくれます。先生は、「長田の子は絶対オリニマダンを見に行かなあかん。すごくええ機会や」と、クラスで呼びかけてくれます。
次の日、みんなが、「きれかったよ、よかったよ」と言ってくれるのがうれしいです。
私は自分のルーツをかくそうとするのはキライです。自分のことがわかるということは自分のことを友だちに言えるということだと思います。
ソダンやマダンでたくさんのことを教えてくれたソンセンニム、コマッスムニダ!
私の夢は舞台女優になることです。小学校1年のときからずっとミュージカルをやってきました。夢に向かって一生懸命がんばって行きたいと思います。カムサハムニダ!
◆ 林 晶 (中国)
私が初めて日本を訪れたのは5歳の時でした。当時は父の仕事の都合で日本に来たため、日本語は全く分からず、ゼロの状態で幼稚園に放り出されました。しかし、今はその決断に感謝しています。周囲の環境がすべて日本語で、先生と交流するのにも、友達と遊ぶのにも日本語が必要でした。そのため私小さいながらも努力していたかもしれません(あまりに昔のことではっきりとは覚えてないのですが)。また、5歳の子供の環境への適応能力が強かったのか、私はわずか二か月ぐらいで日常生活程度の会話は問題なくできるようになりました。
始めは、日本語を覚えるために、家族との会話も日本語で話すように努力していましたが、徐々に日本語でその日の出来事を伝える方が楽になっていき、自ら日本語を話すようになっていました。そのかわりに日本で三年間過ごしたら全く母国語の中国語が理解できなくなり、当然話すことも出来なくなってしまいました。そのとき改めて母国語の重要さに気付き、8歳の時中国に帰り、小学校一年生からやりなおりました。その後高校二年までの学生生活を母国で過ごしましたが、その期間でも日本語を忘れないように、夏休みや冬休み期間は日本の友達に会いに来ていました。
そのおかげで今の私は、日本語と中国語の両方がネイティブレベルに話すことができます。生活には不便がなく、楽しく過ごせることができます。しかし、時々漢字を書くときに、中国語の方の漢字を無意識に書いてしまうのが、問題です。
在我5岁的时候第一次来到日本。当时是因为爸爸的工作关系来的,所以一点日语都不会,完全是零的状态就把我扔进了幼儿园。但是现在非常感激当初的这个决定。因为周围的环境都是日语,和老师交流,和朋友玩耍也都需要日语。为了语言问题小小的我可能也做了许多努力(因为是很早的事情,所以不是记得很清楚)。还可能因为5岁小孩对环境的适应能力很强的原因,我不到2个月就学会了日常生活程度的会话。
最初为了学习日语,和家人的会话也尝试着用日语会话。但是逐渐的觉得用日语会话特别舒心,所以自然而言的适应了用日语对话。但是,在日本生活了三年之后一点汉语都听不懂,也不说出来了。这个时候我才认识到母语的重要性。所以8岁的时候重新回到了中国,从小学一年级开始重读。之后一直读到了高中二年级,但是这期间为了不忘记日语,利用暑假和寒假的期间来日本的朋友。
正因为这样的体验,日语和汉语的语言都可以说的很流畅。所以说在两国的生活都很方便,并且生活的很愉快。只是写汉字的时候,时不时的会用汉语的汉字写文章,很让我烦恼。
私は12歳の時にベトナムから日本に来ました。
日本語は全然分からず、一からだったので一個下の学年に入れて頂き勉強することになりました。
その時は言葉の壁など感じる余裕もなく必死だったのを覚えています。 そのなかで学校の先生は授業以外でも一緒に勉強をしてくださいました。
また、学校以外にも地域の公民館で日本語を勉強しました。 2年ぐらいは本当に周りが何を話してるのかわからない状態で、疎外感がありました。
しかし、3年ぐらい経つと日本語もある程度わかり、友達もでき学校が楽しくなりました。
一方で、この時から言葉の壁を感じるようになりました。 伝えたいことが、上手く言えず、嫌になったこともありました。
けれど友達とコミュニケーションをする楽しさがわかり、さらに日本語の勉強をするようになりました。
家では親と話す時以外は、日本語を話す日々だった。 そうすると12歳でベトナムを離れた私は、基本的な言葉しか知らず、しかも言葉は話さないと忘れてしまいます。
それに気づき、何かが違うと感じました。 改めて自分の母国語を忘れてはいけないという思いがありました。
それからは自分なりに、ベトナム語に触れる機会を増やしました。 例えば、インターネットでベトナムの記事を読んだり、ベトナムの昔話の本を読んだりしました。 そうすることで、ベトナム語を忘れず、維持することが出来ています。 今では難しい言葉をわからなくても、伝えたいことは伝えられています。 ベトナム語を勉強していることのメリットは考えたことはありませんが、やっぱり周りの友達・親と楽しくコミュニケーションしたい思いがあったから学ぼうという気持ちになれたのだと思います。 自分の思いが伝えれない虚しさ、悔しさがバネになったと思います。
小さい時から日本で暮らす外国の子どもが本当に母国語を維持することは難しく、勉強する機会も少ないと思います。しかし、自分の母国語はやっぱり忘れてはいけないと思います。日本語も母国語も上手く使えるようにし、豊かな表現をして自分の気持ちを伝えれるように勉強を続けることが大事だと感じます。
◆ レイエス アルバロ (Alvaro Reyes Enriquez) (ペルー)
私は10歳の頃、小学4年生の時に日本に来ました。
小さい頃から勉強に励んでいたことで、当時の私のスペイン語のレベルは他の子供達よりはレベルは高く、これからも成長する頃だったのですが、日本に来て日本の小学校に入り、
0からのスタートをきったことで不安も抱きながら、日本語もスペイン語も勉強しながら、
私の親の言葉でもあるポルトガル語もはじめ、3カ国語を勉強しましました。
私の方から他言語を同時に勉強することに対するデメリットは感じませんでした。
逆にメリットとして自分のルーツの自覚できること、自分のアイデンティティを持つこと、自分の世界を広めることができることに対してすごいメリット、または才能ともなることだと思うので、買ったり、貰ったりする物は誰にでも奪われることはできるが、それより、こう言った自分の物でしかない物を身につけることで自分の一生の宝物として持てると思うのです。
是非日本、または様々な国々に在住している外国籍の持つ子供たちが、これらを自分の物にして大いに成長して欲しいと願っています。
Yo vine a Japón a los 10 años(4grado de la primaria ). Con mucho empeño desde pequeño tenia mas facilidad en la lengua natal, mas que los otros niños de mi edad,y seguramente iria a desenvolverme mas y mas. Solo que al venir a Japon tuve que comenzar desde 0 ,lo que me dio mucha preocupación y dudas por el gran cambio. Empecé a estudiar las dos lenguas ,claro que tambien contando con mi otra lengua materna que es el portugués, lo que tornaba mis estudios a 3lenguas al mismo tiempo. Al estudiar las tres lenguas nunca senti ningun tipo de desventaja o mal ,si nó al contrario, senti una ventaja a comparacion de otros niños ,chicos y adultos por poder estar consiente de donde soy , poder saber mi propia identidad y poder vivir en un mundo mas ámplio con muchas posibilidades dentro de este gran universo. Se puede llamar ventaja,o como un talento que no se puede comprar o recibir como otras cosas que alguien nos podria quitar,es como un tesoro que es solo nuestro . En Japón u otros paises donde hallan niños de diferentes nacionalidades les deseo todo lo mejor , que puedan desarrollar este magnífico talento que solo nosotros lo podemos tener a través de esta gran experiencia y sobre todo les deseo muchos exitos.
◆母語が話せるメリットについて 小波津アリシア (ペルー)
私はスペイン語を母語に持つペルー人です。来日して約10年になります。最初は皆さんが今突き当たっているであろう日本語の壁に私も悩まされておりました。今こうして日本語を不自由なく使えるのは、周りの環境が優れていたからだと思っています。小学校のときのサポーターや友達、先生に助けてもらいながら、日本語という言葉を少しずつ覚えていきました。日本語を学ぶのと同時に、スペイン語母語教室にも通いました。
今回皆さんに伝えたいこと、それは母語を話すメリットについてです。
一番直結していると思うのが、知り合いの方たちを通じて、通訳または翻訳の仕事をいただけることです。もうひとつは、スペイン語を教える先生としてとある高校に呼ばれたことです。日本語を学ぶことで、学校生活をなんの不自由もなく過ごす事ができ、スペイン語教室に通ったことで、忘れずに、今は仕事と結びついています。
日本語を学ぶことも大切ですが、いかに母語を同時に維持するのかも大切だと思います。そして、その二ヶ国語を話せることに葛藤せず、自分にはこういう一面もあり、むしろ誇りに持つべきことだと思います。
Me llamo Alicia Kohatsu. Soy peruana y vivo en Japón por alrededor de 10 años. Yo también como todos me he enfrentado a la pared de comunicación. Al principio no podía hablar bien con mis compañeros. Ahora, gracias a los que me ayudaron en mi primaria, mis profesores, compañeros, voluntarios, puedo hablar el japonés sin dificultad. De poco a poco estuve aprendiendo japonés, aunque al mismo tiempo aprendía el español para no olvidarme.
Uno de los méritos que tengo por saber mi lengua materna, el español, es que me dan trabajo como traductora o intérprete. Además tengo un trabajo para enseñar en un colegio.
Lo importante es como aprendes el japonés, y mantienes tu lengua materna. No es un problema que tengas que manejar dos lenguas al mismo tiempo. Al contrario, deberías de estar orgulloso por tener las raíces de tus padres y puedes hablar o vas a aprender dos idiomas diferentes.
◆2011年度 6年生 女子
ヨロブン アンニョンハセヨ。わたしは地元の公立小学校に通う6年生です。
私がオリニソダンに入ったのは、私の学校でオリニマダンが開かれた3年生の時でした。先生に、「韓国朝鮮にルーツのある子どもたちが集まって勉強しているオリニソダンというのがあるよ」とすすめられたからです。
ソダンに入る前、あるとき、「私ハーフなん?」と母に聞いたことがあります。そのとき母は、アボヂが韓国人で自分が日本人であること、結婚するときから生まれてくる子どもには韓国と日本、両方の文化を大切にして育てたいと話し合ったことなど、いろんな話をしてくれました。それを聞いて私は、みんなとちがうというのが何か誇らしいと感じられました。
最初、ソダンに行って思ったのは、「うわー同じルーツを持った子がこんなにたくさんいるんだー。」というおどろきでした。それから今日まで、ほかの習いごととのかけ持ちで、しんどい時もあるけど、ソダンやマダンに参加してきました。
アボヂはマダンに出てチャングをたたいたり、プチェチュムを踊っている私を見るたび、毎年のように、「ひいじいちゃん、ひいばあちゃんが生きてたら絶対、よろこんどうわ、いっしょにおどるんちゃうか」とうれしそうに言います。
学校の友だちも先生もオリニマダンを見に来てくれます。先生は、「長田の子は絶対オリニマダンを見に行かなあかん。すごくええ機会や」と、クラスで呼びかけてくれます。
次の日、みんなが、「きれかったよ、よかったよ」と言ってくれるのがうれしいです。
私は自分のルーツをかくそうとするのはキライです。自分のことがわかるということは自分のことを友だちに言えるということだと思います。
ソダンやマダンでたくさんのことを教えてくれたソンセンニム、コマッスムニダ!
私の夢は舞台女優になることです。小学校1年のときからずっとミュージカルをやってきました。夢に向かって一生懸命がんばって行きたいと思います。カムサハムニダ!
◆ 林 晶 (中国)
私が初めて日本を訪れたのは5歳の時でした。当時は父の仕事の都合で日本に来たため、日本語は全く分からず、ゼロの状態で幼稚園に放り出されました。しかし、今はその決断に感謝しています。周囲の環境がすべて日本語で、先生と交流するのにも、友達と遊ぶのにも日本語が必要でした。そのため私小さいながらも努力していたかもしれません(あまりに昔のことではっきりとは覚えてないのですが)。また、5歳の子供の環境への適応能力が強かったのか、私はわずか二か月ぐらいで日常生活程度の会話は問題なくできるようになりました。
始めは、日本語を覚えるために、家族との会話も日本語で話すように努力していましたが、徐々に日本語でその日の出来事を伝える方が楽になっていき、自ら日本語を話すようになっていました。そのかわりに日本で三年間過ごしたら全く母国語の中国語が理解できなくなり、当然話すことも出来なくなってしまいました。そのとき改めて母国語の重要さに気付き、8歳の時中国に帰り、小学校一年生からやりなおりました。その後高校二年までの学生生活を母国で過ごしましたが、その期間でも日本語を忘れないように、夏休みや冬休み期間は日本の友達に会いに来ていました。
そのおかげで今の私は、日本語と中国語の両方がネイティブレベルに話すことができます。生活には不便がなく、楽しく過ごせることができます。しかし、時々漢字を書くときに、中国語の方の漢字を無意識に書いてしまうのが、問題です。
在我5岁的时候第一次来到日本。当时是因为爸爸的工作关系来的,所以一点日语都不会,完全是零的状态就把我扔进了幼儿园。但是现在非常感激当初的这个决定。因为周围的环境都是日语,和老师交流,和朋友玩耍也都需要日语。为了语言问题小小的我可能也做了许多努力(因为是很早的事情,所以不是记得很清楚)。还可能因为5岁小孩对环境的适应能力很强的原因,我不到2个月就学会了日常生活程度的会话。
最初为了学习日语,和家人的会话也尝试着用日语会话。但是逐渐的觉得用日语会话特别舒心,所以自然而言的适应了用日语对话。但是,在日本生活了三年之后一点汉语都听不懂,也不说出来了。这个时候我才认识到母语的重要性。所以8岁的时候重新回到了中国,从小学一年级开始重读。之后一直读到了高中二年级,但是这期间为了不忘记日语,利用暑假和寒假的期间来日本的朋友。
正因为这样的体验,日语和汉语的语言都可以说的很流畅。所以说在两国的生活都很方便,并且生活的很愉快。只是写汉字的时候,时不时的会用汉语的汉字写文章,很让我烦恼。